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  ひ は陰陽を超えている。 全てを超越して、全てであり、全てにある。 アーユルベーダで言えばプラーナのような存在、 でもプラーナとも違う。 ひ という響きから連想ものが沢山あるように、 ひ は一言では説明がつかない。 そんな ひ をとどめて、ひと が生まれる。 気血水の殻を剥いてゆくと、最後に ひ が現れる。 ひ は全ての健康のもと、ストレスといものが無い 病気というものが存在しない。

天国と地獄

天国と地獄 天の刻む時間 天刻 自我の刻む時間 自刻 天の時間で生きる時 我の時間で生きる時 そこには天国と地獄の差が生まれる。

Natural law cure

山 川 草 木 空 海 洸 天       

生命循環の輪

●  宇宙の実、地球 地球には宇宙の実の精”うみ”がある ● うみにはさらに”精”があり それが集まって”みず”となる ● みずは光と交合し みどりという生命を生む ● みどりはやがて地に根をおろし ”き”となる そして、 その ”き”はどんどんと 天を目指して伸びてゆく ● やがて”き”は                →頂きに達することの出来ないみどりは その頂きに達すると、き(気)となり       太陽に呼応するように色とりどり 天に昇り太陽のひと交わる             の花を 咲かせる。 ● ひと交わった”き”はその上昇を止め  →”ひ”をためた花は実りとなる ”ひ”となる ● ひはその温度を下げてゆき       →熟した実は地に落ちて、 ”ち”(地)に還る                 動物や他の生物の栄養となる ● ”ち”はたちまちにして広がり      →あとには種が残る、種は次の やがてその働きを止め”し”(止)となる。         ”うみ”へと繋がる。 止となったしは次に”し”(始)へと移り変わる。 それは、静脈血が動脈血へ変わるように 実から種になるように 新たな”うみ”へのはたらきへと 繋がってゆく。 このようにして、生命は循環しその循環に色相環も呼応しているのです。

【犍陀多(カンダタ)の光の糸】

【犍陀多(カンダタ)の光の糸】 犍陀多の光の糸は誰にでもある。 タマスの泥濘(ぬかるみ)であがいているとその光の糸はたちまち にして切れてしまう。ラジャスの炎の海の中ではとても光の糸は届 かない。こころ静かに見据えることができれば、光の糸はたちまち にしてその身を包んでくれる。しかしこの至光(サットバ)の時な すべきことを忘れれば、たちまちにして光は消え、タマスの奈落へ 転落する。忘れないこと、それが大事。。。 芥川龍之介の 犍陀多の蜘蛛の糸を光に例えてみました。φ(゜゜)ノ゜

自然律の詩(うた)

 ながいながい眠りの中で、光は目覚めた。 それは本当にかすかな輝きであったが 次々と広がりはじめ瞬く間に壮大な光雲となった。 これ以上ないほど鮮烈な光の覚醒は それによって照らされるあらゆるものを生み出した。 生み出された万物は相互に働きあい そしてまた新たなものを生み出した そのうち、ついに水の精(aquanome)が生み出された。 水の精は光と交わり命を生み その命は進化を続け様々な生命を紡ぎだした。 そして生命の海はやがて意識の芽を生むこととなる。 そして生命と意識が結びつき ひと、が生まれた。 ひと、は唄をうたい、踊り、祈りをささげ、そして語り合い 意識を育むようになった。 それは”太古”の昔も今も変わらず続いている。 そうして意識は繋がり、海となり やがて大きなうねりとなる。 大きなうねりとなった意識の海は また、新たな光を生む そして、光はまた新たな物語を始めるのだ。 それが、私たちの生きる目的 それに交わるものは歓びと健康を得 それに逆らう者は災いを招き人々を苦しめる。 そこから離れるものはタマスの泥濘に足を取られ、自らを苦しめる。 人々は宗教や哲学、音楽、芸術、或いは風習としてそれを伝えてきた。 生きる目的を忘れずに。。。

みんなおなじ

人生の前半は 自分を知るためにある 人生の後半は みんな同じであることを知るためにある